1.7m

日記。

滞らせていた公共料金の支払いやジムの手続きも済ませて、頭の隅にやらなきゃいけないことがずっとあることによるストレスと、それが自業自得であることを自覚しているが故に余計に情けないような気持ちは大体解消したはずだった。

それなのに、今日はどこか不安で悲しい気分が続いた。

 

夜8時を過ぎたスーパーで半額のお寿司でも買おうとお惣菜売り場を眺めてみたけど、こういうときに限ってすべて品切れでがっかりしたような、だよなー、という微妙な納得感。物語の情景描写のように、気持ちが現実にリンクしているような錯覚を起こす。

 

隣のコーナーに行くと、炙った刺身の盛り合わせが一つだけ残っていた。

半額シールを確認し、それを手に取って値段を見ると、元値が842円だった。

 

ふいに、「こんな自分が842円もする刺身を食べていいのだろうか。」

こんなことを思ってしまって泣きたくなった。

 

一度戻して、また手に取って、また戻して、迷ったけれど結局買った。

家についても食べる気はなかなか起こらなかった。

 

最近はよく眠れない。早く寝よう。

感情の鮮度

もっとこう、感じたことをそのままに出さないといけない。出したい。出せたらいいなあと思う。

 

熊本で出会ったアイコという品種のトマトが好きだとか、彼女がコロナにかかって心配だとか。

 

それ以上でもそれ以下でもなく、ただありのままの感情の賞味期限は短い。

思ったことをそのまま書いているはずなのに、「賞味期限」なんて陳腐で恥ずかしいなとか、書いた瞬間に思ってしまったりする。

 

書いたり、話したりした瞬間は、ありのままの感情は残る。

思っているだけだと、すぐにノイズがかかり、その輪郭はぼやけ、拡散する。

思ったこと、感じたことに対して2秒後の自分が口うるさく質問責めをするせいだ。

 

「心配」は誰のための「心配」?彼女になにかあったら何が悲しい?どう困る?

母親から言われてあんなにも煩わしいと感じていたその言葉と、今の感情は何が違う?

 

……等々。暇なのに無駄に疲れる。というかたぶん、暇だから疲れるのだ。

 

あー、人とご飯食べたい。それだけ。

 

 

風鈴

スーパーの帰り道、汗だくになりながら自転車を漕いでいると、

どこかの家だろうか、風鈴のかん、かららんという音が聞こえてきた。

 

涼しい。

 

音が涼しい、というのはふしぎに感じる。

聴覚と皮膚感覚は何の関係もなさそうなのに、かん、かららん、という甲高い音を聞くだけで、汗が引くような錯覚さえする。

 

しかし、こどものころは風鈴の涼しさ、というのがまったくよくわからなかったような記憶がある。

 

風鈴の音が涼しいと言っている大人に対して、そう思い込んでいるだけだろう、とうっすら軽蔑さえしていた。

涼しさは音自体の力ではなくて、「風鈴は涼しい」という共通理解が勝手にそう思わせているだけで、馬鹿なんじゃないか、と。(今思えばほんとうに憎たらしい)

 

いつの間にか風鈴の涼しさを理解、というか実感するようになり、自分の何が変わったんだろうと考えてみる。

 

風鈴の涼しさにあれだけ疑念を抱えていたこどもが、いくら年を取ったからといって「風鈴は涼しい」教の信者になったとは考えにくいし、もし無自覚にそうなっていたとしたら恥ずかしいので、違う理由を探す必要がある。

 

なんだろう、と考えながら帰宅し、コップに氷をたくさんいれて麦茶を入れる。

すぐに冷えるように、指でかき混ぜたとき、

「あ、これか。」と腑に落ちた。

 

キンキンに冷えた麦茶や、ゆであがったそうめんをこおり水でしめるときの、こおり同士がぶつかったときに鳴る、あの音に風鈴の音はそっくりだった。

 

からんからん、という音が涼しいのは、この音にまつわる涼しい経験がそう思わせてくれているのだ。

 

多分、世の中には経験していくうちにわかるようになることがたくさんある。

そう思うと人生、楽しみでいっぱいだ。

 

 

以下、追記

「風鈴 なぜ涼しい」とネットで検索したところ、「風鈴の音によって風が吹いている記憶を想起させる」と書いてありました。絶対麦茶でしょ。

 

25歳の原点

2022年7月15日、25歳の誕生日を迎えた。

25歳になった、ではなく、なってしまった。という実感がみぞおちの奥のほうからじんわりと上がってきた。少し吐き気にも似た、その実感。

 

誕生日を迎えたのにこんなに薄ら暗い気分になっているのは、おおよそここ3年間の無気力感が不安の原因だろう。

 

仕事は難しい、と思う。ただやることが用意されているわけではなくて、なにをやるべきか、考えたうえで仕事をつくらなければならない。

 

といっても、システムの導入という仕事はある程度決まりきった方法がすでに確立されていて、いかにそれを効率よく、あるいは確実に行えるようにするか、という観点が大事になってくる。

 

つまり、"やったほうがいい"を探してやるのが仕事であって、やらなかったとしても全体としてはそれなりにうまく回るようになっており、なんというかやりがいをうまく見いだせないでいる。

 

ざるを洗うとき、水がそのまま通り抜けてしまうような手ごたえのなさ。心もとなさ。

 

そもそも、選んだ職業も入った会社も、消去法的に、あるいは周りの人に見下されたくないという滑稽なまでの見栄と自意識で決めた。

 

結果、それなりの待遇で生活は保障されているけど、なんとなくやるせない。

 

もちろん、考え、やりがいを自ら発見して意味を持たせるのが仕事だ、というのが正論であることは重々承知しており、やりがいを感じない、なんていうのは単純な甘えだということも自覚している。

 

世の中がうまく回るには、さっき言ったような正論が必要なんだと思う。どんな仕事も誰かがやらなければいけないし、その上一人一人が自分に価値をみいだして幸せになれるならこれ以上win-winなことはない。

 

それを分かったうえで、こう思う。

 

今の自分の延長線上で、来た道をほんとうに誇れるのか。

誇って生きているフリをして生きてしまうんじゃないか。

 

就活生時代、うっすらとコピーライターという職業に憧れがあった。

理由は単純で、言葉で救われたから。言葉でなにかをしたいという、それだけ。

小説とかは書ける気がしないけど、短いコピーならなんとかなるんじゃないかという甘い考えもある。

 

コピーライターになりたい、という小さな思いは自分に残った数少ない火種だと思う。

この火種が燃え尽きないうちに、人生をかけるくらいの挑戦をしたい。

 

25歳としての抱負と、戒めを込めて。

しもきた

札幌の長期出張の合間を縫って久しぶりに東京に来た。

札幌も人が多いが、東京はそれよりもずっと多いし、みんななんとなく気取った感じがする。

 

東京に来た、といっても彼女に会う以外は特にやることもない。

彼女は仕事で朝早く(なんと4時半!)から出かけてしまったので、

横向きにやけに膨らんで軍艦巻きみたいになってしまった髪の毛をどうにかしよう!と思い、

千歳船橋の家から近くでできる限り安いところを探した。

どうやら下北沢は比較的安いらしい。ホットペッパービューティーで上のほうにでてきたところを予約しておいた。

 

下北沢。おしゃれな若者の街。

 

予約時間の15分ほど前に駅に着き、きょろきょろしながら店に向かう。

 

最近はシャツをズボンに入れるのが流行っているらしい。みんな小慣れた感じでかっこいい。

こっそり真似をしようとしたが、秋葉原を闊歩してそうな風貌になったのですぐにやめた。

 

服とかは何を着ればいいのかよくわからないので、関心がないということにしているが、おしゃれなシティボーイたちを見た後に、ショーウインドウに映る自分の姿を見ると、やっぱり気恥ずかしいような気分になる。

 

そんなこんなで「おれなんかが下北で髪を切っていいのだろうか……」と若干不安になりつつあったが、なんとか店に到着し、予約時間と名前を告げた。

なにやら店員さんがバタバタしており、おや、と思っていると

「予約が確認できるものをお持ちですか?」と聞かれた。

 

どうも予約していた店は隣のビルだったらしい。

ややこしいからもっと離れたところに店をつくれ、と内心思いながら店員さんに丁寧に謝って本命に向かった。

 

入ると今度はすんなり案内される。一安心である。

 

席に座って待っていると、「本日担当いたします、近藤です」と言いながら銀髪のイケイケな感じの美容師さんがやってきた。

 

一瞬、うげ、と思った。絶対こいつ女を殴ってるだろ。

ただ見た目で人を判断するのはよくないと思いなおし、笑顔でよろしくおねがいします、と言う。

 

今日はどうされますか、仕事はなにをしているんですか、と聞かれ正直SEと答えると、モテる職業じゃないすか、と言われる。

モテないっすよ、と返しながら、そんなんで喜ぶかバカ、と思う。

 

その後もやたらと話しを続けてくるものの、彼の自信を10としたとき、話の面白さが0.4くらいしかない。

 

しまいには、昔ボーイズバー?とやらで月に6,70万稼いでいた、などと。なんだこいつは。自虐話の一つもしない人間に、自慢話をする権利はない。

昨日うんこ漏らした、というようなくだらない話のあとなら聞いてやらんでもないものの、唐突な自慢話ほど癪に障るものはない。

 

と、ここまで批判したものの、黙ってもらえますか、などと言う勇気は母親の腹の中に置いてきてしまったので、タブレットで週刊誌を読んでいるので、少し黙っててもらえませんか?という雰囲気を醸し出すことに専念した。努力むなしく彼は最後までしゃべり続けていた。

 

髪の毛は可もなく不可もなく、といった感じに仕上がり少しほっとしたもののやたらと疲れた。

 

熊本のほうが居心地がいいや、と思う。

やることリスト

呑気に日記など書いてる場合ではない。

 

出張で明日の午後には会社を発たなければならない。

それに、今回の出張は、2週間とかなり長い。なんにせよ、準備に時間がとにかくかかる。

 

洗い物は昨日からためたままだし、明日の燃えるゴミの日に合わせてごみをまとめなければ。

 

掃除もしておきたい。シンクの生ごみ、風呂場の排水溝に溜まった髪の毛に下の毛。トイレも最近はアンモニア臭がほんのり漂っている。

 

そういえば、熊本にきて1か月半がたつが、一度も掃除機をかけていない。

 

言うまでもないが、荷造りなど一切手をつけられていない。SEっぽくいうと進捗率0%である。遅延報告をあげなくては。

 

それなのに何も手を付けず、風呂上がりのまま全裸でキーボードを叩いている。(せめて服は着ろ!)

 

ほんとうにこんなことをしている場合じゃない。

雨に濡れる

そのときは本心を書いているつもりでも、書いた後で

「あ、本心はこうじゃなかったな。」と思うことが多々ある。

 

話した後も、言ったその瞬間に訂正したくなるときがある。

違った。とつい思う。訂正させてもらえるかどうかは、相手による。

 

日曜日の夕方5時、なんとなく憂鬱な気分で、外をみると雨が降っている。

家にいるよりは少し、外に出たいようなそんな気分で、近くのドンキまで下の朝ごはんのパンでも買いにいくことにした。

ふと雨に濡れながら歩きたいと思った。

 

玄関でサンダルを履き、外に出た後、腕だけを雨にさらして具合を確認する。雨は結構降っていた。

 

雨に濡れていくか、傘を持っていくか少し迷う。

全身びしょ濡れのままドンキの店内をうろついて、少しだけ怪訝な視線を向けられる自分の姿が頭をよぎった。

傘は持って行って、帰り道だけ傘を閉じて濡れればいいか、と思い傘は持っていくことにした。

 

無事買い物を済ませた帰り道、傘を閉じたまま歩いてみる。

 

違う、と思った。

自分は、雨に濡れたかったんではなくて、雨の中傘も持たず、どうしようもない気分になりたかったんだ、と気づいた。

どうしようもない、となれば開き直るしか道はない。

そういう強さが今の自分に欲しかった。そう気づいた。

 

書いて、話して、体験した瞬間に、自分への解像度がぐっと上がる気がする。

自分を知るために、書くことをしばらく続けたいと思う。

 

 

以前書いた記事で、書いた後にあ、これは違ったな、と思ったものを非公開にしようと思ったが、やり方がいまいちわからなかったので、そのままにしておいた。黒歴史をみられているようで恥ずかしいが戒めとしておく。